季節の移ろいを少しずつ感じる今日この頃。読書、食欲、スポーツ、芸術…いろんな秋がうたわれていますね。
 なぜ秋だけ多種多様なレパートリーがあるのでしょうか。一説には、夏目漱石の三四郎からというものがあるようですが、おそらく一年のなかでも過ごしやすい気候、という感覚的な部分もあるのでしょう。



【ノーザンデライツ】ビタミンCが多く含まれており、スポーツ後の水分補給にもぴったり。


 読書の秋だから…というわけでもないのですが、最近、日本語の辞書とも呼べるような書物を手に入れました。これがなかなか面白い。
 目次が細かく、ある種ショートショートのような感覚になるので、本日の占い気分で開いた頁を読む、ということを毎日しています。一気に読んでしまうのがなんだかもったいなくて。
 そういうわけなので、まだ読了していませんが、現時点で出逢ったものだけでも印象のに残るものがあちこちに。その中のひとつ、「言霊」についての記述が興味深かったので、少しふれたいと思います。

『うっかり口にすると、それが事実となって現れるという言霊思想からだ。「切る」の代わりに鋏を「入れる」、「閉会」を嫌って「お開き」にしますと反対語を使う。』
(引用:日本語をみがく小辞典 森田良行)

 口に出すと、その言葉に潜む霊力によって、良いようにも悪いようにも言葉が働くという信仰。不吉な音だ、意味が縁起でもない、好ましくない、という理由から反対に縁起のいい言葉に言い換えるというもの。
 何気なく日常に溶け込んでいる言葉の中にも、確かにそうだと思いあたるものがあり、それはつまり、言葉の意味を深く考えず感覚的に使っているものが、自分の想像よりはるかにあるのだと。そう気づくわけです。

 そこでふと浮かんだものが一つ。
 お茶を「淹れる」って言いますよね。



 これを原理的観点からよくよく考えてみると、お湯に茶葉の香り、色、うま味や甘み苦味など、その他諸々を抽出している、ということになります。抽出とは、別の言葉で言い換えると「出す」ということ。
 そう、これも反対の意味を持つ言葉に言い換えている一例なのでは?と思ったのです。(そういや、出汁も「出す」ではなく「とる」と使いますね。)
 本当のところどうなのか定かではないので、もしかしたら最初は出すと使っていたけれど今のかたちになったのかもしれないし、反対言葉に言い換えたのかもしれない。それらを想像するのは、連想ゲームみたいで面白くありませんか。

 余談ですが、「淹れる」と「煎れる」を目にするたびに、その使用場面について考えていました。
 これはいい機会だと調べたところ、火から降ろしたお湯に茶葉を浸すか、火にかけているお湯に茶葉を入れて煮出すかの違いとのこと。なるほど?
 つまり、「紅茶を淹れたよ!」は、沸騰したお湯を使い、ティーポットで蒸らして作った場合。「ミルクティーを煎れたよ!」は、鍋で煮出してミルクティーを作る場合、ということなんでしょうか。日本語って難解ですね。